
新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置し、一般的に新宿駅周辺が「新宿」と言われています。新宿駅(開業1885年)は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい場所です。新宿駅の1日の乗降人員は約150万人で、世界一の乗降客数です。名前の由来は、1698年に甲州街道の宿場・高井戸が遠かったため、新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによります。1923年の関東大震災で住居を失った人たちが、広い山の手郊外に土地を求め、住宅が多く立ち並ぶようになり西新宿一帯は山の手の代表的な住宅地となりました。戦後まもなく、戦後復興の一環として、交通の要所となっていた新宿の街の利便性が注目され、当地に商業施設を集中させる、新宿副都心計画策定に伴い、駅の至近にあった淀橋浄水場を移転させ、空いた広大な敷地に高層ビル群など次々と建設していきました。そして、世界でも有数の一大商業エリアとも言える現在の「新宿」という街が形成されました。

新宿駅南口を出て甲州街道を東へ徒歩10分のところに新宿御苑はあります。敷地(十七万八千坪)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。その後、皇室の庭園として誕生することとなりました。大正年間には西洋庭園が9ホールのゴルフコースとしても利用され、新宿植物御苑時代の休憩所(旧御休所)が模様替えされてクラブハウスもかねるようになりました。
昭和10年代になると戦争の影が御苑を覆い始め、昭和20年5月の空襲でほぼ全焼という大きな打撃を受けました。戦後(昭和22年12月)国民公園として運営される旨が閣議により決定し、昭和24年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放されました。その後、環境省に所管を移し、平成18年には「新宿御苑」という名を冠して100周年を迎え、現在に至っています。

新宿駅東口から新宿通りを南東に進み徒歩約10分、新宿3丁目交差点の北東側の1画にあります。都内に4軒ある落語定席の一つです。落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸が多数執り行われています。1897年創業で第二次世界大戦により、焼失したが、初代席亭の北村銀太郎が1946年に再建。寄席の伝統を思わせる趣のある造りの建物が現在でも健在です。落語協会所属の落語家ならびに色物芸人と、落語芸術協会所属の落語家ならびに色物芸人が交互に10日替わりで出演しています。ビル化していく寄席の風潮の中で、江戸以来の伝統を重んじ、その雰囲気を現代にとどめる落語色物定席寄席です。

新宿駅東口から東口広場に出てすぐ右横にあります。東京の水道の"育ての親"である中島鋭司博士が、明治34年ごろに欧米諸国を視察した際にロンドン水槽協会から東京市に寄贈されました。赤大理石で造られた水槽で、前面の上部が馬用、下部が犬猫用の水飲み場、その裏面が人間の水飲み場になっています。世界でも数少なく貴重な史跡として、新宿区指定文化財に選ばれています。明治39年に東京市役所前(現在の東京国際フォーラム)に設置され、大正初期までは荷馬車をひいた馬がこれを利用する光景も見られたそうです。その後、各地を転々とし、昭和39年新宿東口広場に設置されました。一般公募の結果、「みんなの泉」と名づけられました。

新宿駅東口より北へ約徒歩5分、靖国通りを渡った一画が歌舞伎町です。町名の由来は、昭和20年代に、現在のコマ劇場のある場所に、歌舞伎劇場を建設する計画があったので、当時の安井東京都知事によって「歌舞伎町」と名付けられました。歌舞伎劇場は「菊座」と言う名称で、4階建て1850名収容のものが計画されていたが、準備中に金融の困難や大建築物の禁止令が出たりした為に実現には至りませんでした。後にこの予定地にコマ劇場が建てられました。 日本最大の歓楽街で飲食店、遊技場、映画館、が多数存在し、クラブや風俗、ホストクラブが並び、深夜になってもネオンが明るく人も多いので「眠らない街」とも言われる。近年は防犯カメラが50台設置されてから件から犯罪数が減少しました。

新宿駅西口から渋谷区・中野区の区境付近までの範囲が西新宿になります。新宿都心といった世界有数の超高層ビル街がこの地域の代表的な存在であり日本屈指のオフィス街を為していますが、他に古くからの住宅街もいまだ健在な街です。1971年に京王プラザホテルが建設されたのを皮切りに、順次跡地に200m超の高層ビルが次々と建設され、1991年に東京都庁舎が移転開庁し、ほぼ現在見られる街の姿となりました。